時代劇でも良く知られる大岡越前ですが、「大岡裁き」という名の落語があります。母親を主張する二人の女性が、 双方共に「私こそがこの子の母親だ」と主張し、どちらも譲りません。争いは収集がつかず、大岡越前の奉行所で裁いてもらい、白黒つけることになりました。大岡越前は二人に、子供の腕を一本ずつ持ち、それを引っ張り合うようにいいました。勝った方が母親になります。二人の母親はその言葉に従い子供を引っ張り合いました。 引っ張られた子供は、痛くてしかたありません。子供の悲痛な叫びを聞いた一方の母親が、可哀想になり手を離してしまいます。手を離さず勝利した母親が子供を連れて行こうとすると、大岡越前が、「待ちなさい、手を離して負けた方がほんとうの母親だ」といいます。本当の母なら、子が痛いと叫んでいるのに引っぱりつづけることなど出来ないはずだといいます。 この寓話は、世界でも同様なものが知られ、この「大岡裁き」も中国の「灰欄記」という話が元になっているといいます。20世紀の前半に活躍したドイツの劇作家、ベルトルト・ブレヒトはやはりこの中国の話しを舞台をコーカサス地方のジョージアという設定にし、「コーカサスの白墨の輪」ろいう戯曲に翻案します。話しは似ています。国の権力者の子供が、内乱により置き去りにされると、召使いであった女がこの子を連れて、戦災、幾多の難を逃れ育て上げま。やがて国難を乗り切ると、この子供を取り返しに生みの母親が現れます。裁判官は大岡越前のような、役人ではなく、村の酔っぱらいの小役人。白墨で描かれた輪の中に子供を立たせて、産みの親と育ての親が、それぞれ子供の腕を引っ張って、引っ張り出せた方に子供を委ねるというものでしたが、育てた女は、やはり子供の腕が痛むことに心痛めて、手を離してしまいます。しかし、その心情こそ、本当の親の証拠と判決されたのでした。しかしブレヒトは科学的唯物論者でしたから、育ての親の心情を重んじるという観点だけではなく、育ててきた物理的「時間」や、実体としての子育ての苦労こそ評価されるべきで、のがれられない運命である血縁や、土地、共同体、伝統、あるいは家族という制度から逃れなければならないと考えたのでした。